【特別連載】科学技術と言葉 vol. 3 ~創薬と記録~
医薬品やその開発など創薬に関わる研究者たちはその多くの時間を実験に費やす。この事は、直接創薬に関わらない人々にとっても理解しやすいものだと思われる。しかし、これらの日々の活動を支えるものの一つは正確な言葉である、ということを理解してくれる人は、そう多くはない。
医薬品開発の研究や開発に30年近く関わってきた経験から、研究活動の始まりから、実施、検証、そして完結までの一連の作業と言葉との関わりについて何回かに分けて述べていきたいと思う。
前回(科学技術と言葉 vol. 2)は、プロジェクト開始に向けた準備での言葉の果たす役割について述べた。今回は、めでたくプロジェクトの開始が決定され、それに関わるメンバーたちも集まり実際の作業が開始されてからの日々の実験から臨床試験に入るまでの過程における言葉の果たす役割について述べていきたいと思う。
目次[非表示]
- 1.研究の実施
- 2.チームの運営
- 3.成果の文書化と次へのステップ
- 4.川村インターナショナルのサービス
研究の実施
日々の実験の中で
製薬企業の研究所で働く人々の殆どは、当たり前のことだが、様々な実験を行う研究者である。しかし、同じ製薬会社の中でも研究所で働いた経験のない人にとって、研究者の一日がどのようなものであるかを知っている人は意外と少ない。多くの人は漠然と、これらの研究員は朝から晩まで実験台に向かって試験管や、フラスコに様々なものを入れ、かき回し、できたものを機械に入れて測定しているような姿を想像するかもしれない。しかし、実際には、この様に実験台に向かって手を動かしている時間よりも、事務机に向かって物を読んだり、記録を書いたり、あるいは他の研究者たちと話している時間の方が圧倒的に長いのが普通である。具体的に見てみよう。
一つの実験は次のような流れで成り立っている。
準備⇒実施⇒記録⇒考察⇒次の実験の立案
である。
お分かりのように、この一連の流れにおいていわゆる実験台に向かって作業する実験はほんの一部に過ぎない。準備では、過去に発表された論文や報告を読んだり、自分自身が行った実験の記録を見返すことは勿論、今から行おうとする実験のプロジェクトの中での意味づけを再確認することも含まれる。日々の実験に流されてしまうと、仮にその実験が成功してもプロジェクトの進展に影響を与えないような枝葉末節のことを延々と行ってしまうことが往々にして発生する。毎回ではないにしろ、プロジェクト発足時に立てた問題や、その解決に向けた目標などを見直し、自分のすべきことを再確認していくことは重要なことになる。
実験台に向かっての実際の作業が終了したときに必ず行わなければならない事は、実験の記録を作成することである。僕自身、大学において実験記録の方法に関する教育を受けなかったこともあり、その頃の実験ノートを見返すと冷や汗の出るような代物だった。ある時、学会でアメリカ化学会が出版している実験ノートの書き方に関する本を読んだとき、これまで自分の書いてきた実験ノートが如何にひどいものだったかに気がついた。そこには、記録をするノートの素材、筆記用具、ノートに資料を貼り付ける際の糊の種類から始まって、記録の訂正の仕方や、1回ごとに、その実験の目的を記入することや、実験の途中で観察した事柄、それに関するその時の解釈、必要ならば、実験装置のスケッチまで記載すべきであることまでが書かれていた。その時の、と書いたのは実験を行った直後には、印象がはっきりしているので細かいことまで記憶できると感じているが、実際には1年前は勿論、半年前の実験記録でもあたかも他人の書いたものであるように記憶があやふやになっている為である。
又、実験が確実になされたことを証明するためにも、記録を正確に残すことは重要である。論文の改竄などが話題になることがあるが、実験ノートに虚偽の記載をすることは殆ど不可能である(1箇所でも嘘を書き始めると、そのつじつま合わせの為に、全てを書き直さなくてはならない羽目になる)。後でも述べるが、この正確な実験記録は特許をめぐる裁判が起きたときには重要な証拠書類にもなりうるものである。
これらの実際に行った、あるいは起きた事柄の記録を作成した後には、実験そのものが当初の目的を達成したのかどうか、達成していないとすれば何が問題で、どのような手立てが考えられるか、実験の結果が、プロジェクトの方向性にどのような影響を与えるかについての考察と共に、今後の実験の方針を設定し記載する。これらを、他人にも分かるように言葉にしていくことが重要になる。
この様に見てみると、『実験する』といっても、その多くの時間が考えたり、言葉で表現したりすることに費やされることを理解していただけるのではないかと思う。
結果の解釈
この様な日々の実験を積み重ねながら、時々関係者(同じ範疇の仕事をしている人の場合もあれば、異なる分野の人も交えた場合もある。)が集まって、プロジェクトの進捗状況に関するミーティングが開かれる。異なる分野の研究者から、異なった見方の意見が出るのはよくある話であるが、同じ分野の人から同じ実験結果に対して、異なる解釈が出ることも少なくない。自身の中で、自問自答しながら、これは確かだ、と思ったことが如何に一面からの見方に過ぎないかを思い知らされる場面でもある。これらの検討によって、今後の実験の方向性を修正しながら再度実験台に向かうことになる。
チームの運営
前回も書いたように、当初の目論見どおりプロジェクトが進行することはまずない。細々した見込み違いならまだしも、そのプロジェクトの帰趨を決定付けるような点での問題が出現した場合(この様な問題の出現は何故か頻々と起こる!)に重要なのがチーム運営の責任者である。自分の専門領域はもとより、畑違いの領域についても、問題が与える範囲、重要性などをできるだけ正確に把握した上で、問題点を解決する手立てがあるか、ないとすれば回避する方法があるか、それらの実行にどの程度の期間と人数が必要か、成功する見込みがどの程度あるか、それらによるスケジュールの遅延は許容範囲か、等を検討した上で、目標や手段などを修正し、メンバーや上層部とも協議しある程度納得してもらう必要がある。それぞれの立場によって見方が異なり、ことに将来への見通しなどは、誰にも正確なことは言えないものについてのことでもあり、非常に難しい仕事といわねばならない。論理的であることは必須のことであるが、同時に人の感情に訴えかけることができる能力が必要であり、『この人が言うならそれに賭けてみるか』と思わせるものがなければ、皆の意識を統一させることは難しい。この役割には、どうも、むき不向きがあるように思われる。
成果の文書化と次へのステップ
多くのプロジェクトは何らかの理由により途中で中止され、臨床試験に進むことができるのはほんのわずかである。臨床試験は、これまでの業務と質的に大きく異なる為、それまでの仕事が論文や特許、報告書の形でまとめられることが多い。論文の重要性については初回にも述べたので、あまり馴染みのないと思われる特許に簡単に触れて今回の最後としたい。
特許とは、自らが発明した技術を公開する代わりに、一定期間その技術を実施し、製造、販売を独占的に行うことを認める制度である。医薬品は、同程度の技術を有している会社にとって、まねることが比較的容易な分野であり特許制度で一定期間(最長で出願から20年+α(5年を超えない))の独占販売が認められなければ、その開発にかけた費用を回収することができない。よく新聞の経済欄で、XX年のパテントクリフ(特許の崖;特許の独占販売期間の終了による売上の激減)をうまく乗り越えられなければ、業績の悪化は避けられない、などという記事を見られる方も多いと思う。この様に、特許はその会社の業績を大きく左右するものである。
研究者たちは、成功裏にプロジェクトへの関与が終了後、場合によっては数ヶ月をかけて、数百ページにも及ぶ特許を作成しなければならない。元々そのようなデスクワークが好きでない為に実験をやっている研究者も多く、かなりの苦行ではあるが、これがなければ会社の存続がありえないため仕方なく行うことになる。なるべく自社の権利範囲を広くするために、候補となる化合物は勿論、その類似の化合物に関しても記載し、他社の参入を阻止すると共に、もし非常に優れたものである場合には、他社にその特許を利用することを許可し、その対価を得ることができるようなものに仕上げることに努力することになる。これらの記述の基礎資料となるのは上で述べた実験ノートである。特許をめぐる裁判になったときには、証拠として提出することもある。
この様に、今回述べたステップにおいても科学技術で成果を上げ、且つ確実なものにする上での言葉の持つ重要性を理解していただけたのではないかと思う。
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