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絵本と翻訳

絵本と翻訳~翻訳絵本を読んでみよう~


書店に行くと、児童書コーナーに沢山の絵本が並んでいることに気づきます。実は日本は世界有数の絵本大国で、出版数はもちろん、質においても非常に優れていると言われています。そして、多言語から翻訳されて出版される翻訳絵本が豊富なことも特徴として挙げられます。「20年で一人前」…つまり、出版から20年後も重版・増刷されて読まれ続ける絵本が良い絵本とも言われる絵本の世界で、ベストセラーに名を連ねる翻訳絵本も数多く存在します。

この記事では、翻訳絵本をいくつか紹介しながら、産業翻訳との違いや共通点を取り上げてみようと思います。

目次[非表示]

  1. 1.『はらぺこあおむし』
  2. 2.『スイミー』
  3. 3.『せいめいのれきし 改訂版』
  4. 4.翻訳絵本を読んでみよう
  5. 5.KIの翻訳サービス

『はらぺこあおむし』

原作:エリック・カール(Eric Carle)、訳:森比左志 <偕成社>
お腹を空かせた一匹のあおむしが色々なものを食べ、成長していく物語です。

翻訳絵本と聞いて最初にこの作品を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。アメリカで1969年に出版され、7年後の1976年に日本でも出版されました。訳者である森比左志さんは児童文学作家であり、他にも多くの外国語絵本の翻訳を手がけています。「はらぺこあおむし」の原題は『The Very Hungry Caterpillar』。直訳すると「非常に空腹の毛虫」となります。…絵本にはやや不向きですね。「はらぺこ」「あおむし」という子供向けのやわらかい言葉で翻訳されているのは児童文学作家ならではだと思います。

原書と翻訳絵本の次の一文をご紹介します。


That night he had a stomachache!
そのばん あおむしは、おなかが いたくて なきました。

様々なものを食べてお腹を壊してしまったあおむしに関する記述ですが、訳文にある「なきました」はどこからきているのでしょうか。


産業翻訳では「原文に忠実に翻訳する」ことが原則であり、原文にない情報を補足することが予期せぬエラーの原因となってしまう場合があります。特にTM(Translation Memory:翻訳メモリー)を利用する場合、それぞれの文脈に応じて言葉を補足してしまうと、TMを介して別の文章でそのメモリー(訳文)を再利用する際、補足された言葉が適切ではないと気づかず採用してしまう…というヒューマンエラーを誘発する可能性があるため、注意が必要です。その一方で、言葉を補足しないと読み手が必要とする情報を提供できない場合もあります。翻訳時に積極的に情報を補足してほしいというお客様もいれば、TMにはできる限り無駄なメモリーを増やしたくないというお客様もいらっしゃいます。用途や目的に応じて、原文にない情報を補足するべきか否か――産業翻訳では、そのバランスも重要になってきます。


では、「なきました」という表現はどこからきているのでしょう。絵本を読んだことのある方なら、このページのあおむしの表情が泣いているようにみえることがすぐに分かると思います。この一文、みなさんならどのように翻訳しますか?


『スイミー』

原作:レオ・レオニ(Leo Lionni)、訳:谷川俊太郎 <好学社>

原題は『Swimmy』。泳ぐのが早い一匹の魚・スイミーが海の底でさまざまな生き物と出会うお話です。

独特の色彩で描かれた本作は、アートディレクターである作者がお孫さんのために作った作品の1つで、アメリカで1963年(日本語版は1969年)に出版されました。数々の文学賞を受賞した名作であり、日本では教科書に掲載されたこともあって非常に有名な絵本です。

訳者は、詩人であり、数多くの外国語絵本を翻訳されている谷川俊太郎さんです。非常に美しくテンポのよい日本語で表現されている翻訳絵本から、次の一文をご紹介します。


One bad day a tuna fish, swift, fierce and very hungry, came darting through the waves.

ところが あるひ, おそろしい まぐろが, おなか すかせて すごい はやさで, ミサイルみたいに つっこんで きた。

原文でtuna fishを修飾しているswift、fierce、very hungryの3つの言葉が訳文では異なる順番で表現され、日本語として自然な文章に仕上がっています。


「原文に忠実に翻訳する」ことが原則の産業翻訳では、基本的には修飾語の順番を原文から大胆に変えることは好ましくないとされます。また、機械翻訳の出力でも、多くの場合、修飾語の順番は原文に即したものになります。しかし、訳文が日本語として読みづらいものになってしまっては本末転倒なので、どのような順番で訳文を構成するかが翻訳者やポストエディターの皆さんの腕の見せどころとなってきます。


指針として、「『~の~』という表記は1つの文章に3つまで」などのルールを設ける場合もあります。「すごいはやさの おそろしいかおの おなかをすかせたまぐろが…」という翻訳もアリでしょうか…。いいえ、やはりテンポが悪いですね。絵本の翻訳では特に、音読した場合のテンポの良さも重要であることが分かる作品だと思います。


『せいめいのれきし 改訂版』

原作:バージニア・リー・バートン(Virginia Lee Burton)、翻訳:石井桃子、監修:真鍋真 <岩波書店>

原題は『Life Story』。銀河系に太陽が生まれてから、我々が生きる現代まで。何十億年という長い長い生命の歴史が芝居形式で情景豊かに描かれた大作で、自然科学分野を代表する絵本の1つです。

日本で2015年に出版された大型絵本で、「改訂版」とあるとおり、初版は1964年(アメリカでは1962年)に出版されています。初版から半世紀ぶりにリニューアルされた改訂版は、2009年にアメリカで出版されたNew updated edition(こちらは絵本ではなくペーパーバック)を基にしており、約50年の間に科学的に解明(あるいは新発見)された情報が更新されています。その一方、不正確な情報は削除され、さらに日本語版では、恐竜研究の第一人者である真鍋真さんが新たに監修されたことで、一部の言葉や表現が最新の科学的観点から適切な日本語へと変更されています。たとえば…初版では銀河系を示すイラストに冥王星がありますが、改訂版では冥王星が削除され、さらには惑星ごとの大きさを示す数字も更新されています。


​​​​​​​この本には、現在では不正確であることが明らかな情報も残されています。その1つが、作者であるバートンの手による、ティラノザウルスが尻尾を引きずって歩いているイラストです。最新の研究ではティラノザウルスは尻尾を伸ばして走っていたことがわかっているのですが、New updated editionを出版するにあたり、バートンの絵本の魅力を残したいというご遺族の意向もあり、イラストはそのままに注釈を付加することになったそうです。

この作品は前述した2作品と異なり、イラストとテキストが一体となっている(作者による手書きのテキストが多数ある)ため、翻訳作業には膨大な時間がかかったことでしょう。

イラストやアイコンの中に書かれた情報の翻訳は、実は産業翻訳でも少々厄介な存在だったりします。図中に書かれたテキストの場合、テキストそのものを翻訳対象から見落としてしまうリスクだけでなく、言語が変わることによってレイアウトが崩れたり、元の図が本来持っている魅力が損なわれたりする可能性も考慮しなければなりません。翻訳会社では、原典を俯瞰することと細部まで把握することの両方が大切になってきます。

翻訳絵本を読んでみよう

翻訳絵本と(少々強引に)関連付けて、産業翻訳にまつわるエピソードをご紹介しました。いかがでしたか?

はじめての育児(現在1歳4カ月)に奮闘中の筆者ですが、以前から翻訳絵本に興味があったわけではありません。せっかく仕事で翻訳に携わっているのだから…と翻訳絵本をいくつか読んでみたところ、原書のもつ面白さに加えて、訳者の方の創意工夫や、「この素晴らしい絵本を日本のこどもたちに届けたい」という情熱が感じられ、その奥深さに感動することもあります。

産業翻訳においても、原文のもつ情報だけでなく、その背景や、発信者の思いといったものを正確に、適切にアウトプットするという本質の部分では、翻訳絵本と通じるものがあるのだと感じています。

さて、翻訳絵本の多くは、児童文学作家などの日本文学のプロによって翻訳されているものがほとんどです。産業翻訳はもちろん、文芸翻訳ともまた少し違う特殊なジャンルの1つですが、機械翻訳の進歩にともない適用できる分野が拡大していくと、いずれ絵本の世界でも機械翻訳が活用される日が来るかもしれませんね。


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