翻訳の品質とスタイル~カタカナ表記の例から
翻訳の品質とスタイル~カタカナ表記の例から
あなたはソフトウェアを購入しました。米国製ですが日本語にも対応しています。インストール画面で言語の選択を求められ、日本語を選択すると、こんなメッセージが表示されます。
インストールするフォルダーを選択してください。初期設定を使用する場合は[OK]をクリックします。フォルダを変更する場合は、[参照]をクリックして指定します。 |
あなたはソフトウェアの品質に不安を覚えます。なぜでしょう。このメッセージには、問題があります。「フォルダー」と「フォルダ」、カタカナの長音符の有無が統一されていません。指示の内容に誤りはなく、インストールは無事完了しました。それでも、最初に目にするインストール画面の表記に不備があることには懸念を抱きます。
翻訳会社では、翻訳の際、「スタイルガイド」という、言葉遣いに関する手引きを使用します。文体、文字や記号の用法など、文章を書く上でのルールを事細かに定めます。
スタイルガイドの目的の1つは、お客様の求める文章に仕上げるために、文体の要件を洗い出すことにあります。そして、もう1つ重要な目的が、文章内で表記を統一することです。スタイルは翻訳の原典とは無関係のため、明示的に定めなければ統一できません。前述のカタカナ表記についても、スタイルガイドに定義して統一すべきです。
ところで、スタイルガイドは翻訳に限定されたものではなく、日本語でゼロから書く文章にも使用されます。企業によっては、対外的な文書のほか、Webサイトやブランドロゴのスタイルを定めている場合もあるでしょう。ただ、翻訳用のスタイルガイドは、一般の表記ルールに加えて、翻訳に特化した問題も扱います。例えば、原文のまま残すべき表現や固有名詞の処理などです。カタカナ自体は翻訳に特化した要素ではありませんが、外国の概念を日本語化する際に使用するカタカナは翻訳文書には欠かせないため、翻訳では特に注意が必要な項目といえます。
スタイルや表記は、文章の見た目を左右します。外部に発行する文書は発行者の「顔」ですから、お客様から原典を預かって訳文を作り上げる翻訳会社は、文章の仕上がりに細心の注意を払います。
見た目だけでなく内容の面でも、表記は重要です。スタイルのミスはいわゆる誤訳ではありませんが、読者の集中力を低下させ、読者の判断に委ねる要素も増えるため、結果的に誤読を招きかねません。誤解を生む訳文は全て誤訳ととらえ、読者が内容に集中できる環境を整えるべきです。スタイルを整えることは、潜在的な誤訳を解消することになります。
では、冒頭のカタカナ表記の例を詳しく見てみましょう。表記にはそれぞれ、特徴があります。特徴は主に、読者の得る印象、用途への適合、文書作成時の利便性の3つの側面から考えることができます。長音符を付ける場合と付けない場合、それぞれの特徴は以下のとおりです。
・長音符なし
- 例:フォルダ
- 特徴:無機質な印象がある。字数が少ないため、スペースに制限のある用途では使いやすい。
・長音符あり
- 例:フォルダー
- 特徴:実際の発音に近いため親しみやすい。読み上げ用の文書にも適している。
また、カタカナ表記には、ほかにも検討すべき項目があります。例えば、複合語を表記する際の各単語の区切り方です。
・区切りなし
- 例:アプリケーションサーバ
- 特徴:簡潔だが意味が不明瞭になる場合がある。翻訳時の統一はとりやすい。
・中黒で区切る
- 例:アプリケーション・サーバ
- 特徴:わかりやすいが見た目がうるさい場合がある。区切り方を定めるため、不統一になりやすい。
・空白で区切る
- 例:アプリケーション サーバ
- 特徴:Microsoft製品のスタイルでITとの親和性が高い。区切り方を定めるため、不統一になりやすい。
スタイルの決定時は、こうした特徴を検討します。実際には、お客様からスタイルを指定されることも多いですが、表記のパターンや不統一が生じやすいポイントを把握しておくことは重要です。逆に、翻訳の依頼を検討されているお客様は、このような点を考慮してスタイルを提示していただくと、翻訳会社ではお客様の求める質に仕上げやすくなります。
スタイルは空気のようなもので、読者はスタイルを意識せずに内容に没頭できなければいけません。スタイルが気になるということは、内容の理解を阻害されているということです。翻訳自体が正しくても、スタイルの不備によって誤読を招き、全体の印象を損う可能性があることを、認識しておく必要があります。
ここで取り上げたカタカナ表記の問題は、スタイルの1つの要素に過ぎません。外国語で書かれた文章を訳し、日本語として適切なスタイルをあてていく作業は、想定外のことばかりです。翻訳者様の努力の結晶を預かり、お客様の顔を納品する、翻訳会社の社員として、この問題を考え続けていきたいと思います。