原文が同じでもこれだけ違う!

人によって異なる「翻訳品種」とは? 

翻訳品種とは?

翻訳サービスにおいて重要なのは、お客様にご満足いただける品質の翻訳を提供することです。では、「お客様にご満足いただける翻訳」とはどのような翻訳で、それを実現するには何が必要なのでしょうか。

翻訳を評価する際の基準についていえば、誤訳や訳抜けがない用語集やスタイルガイドに準拠している日本語として自然である……など、いろいろなものが考えられます。中には客観的な評価が可能な点もありますが、評価者の価値観に左右される面も少なくありません。また、対象読者や用途に適した翻訳かという点も重要です。この記事で述べているように、当社ではお客様ごとに異なる用途や分野、好みなどの要求事項品種と呼んでいます。

翻訳品種の把握が大切な理由

原文が同じであっても、翻訳の方針(翻訳時に何に重きを置くか)が異なれば訳文も異なり、読み手に与える印象も大きく変わります。そのため、高品質な翻訳を実現するには、あらかじめ品種を把握して翻訳の方針を決定することが非常に重要です。今回は、日本人になじみ深い作品の方針の異なる2種類の翻訳を比較して、なぜ翻訳品種の把握が大切なのかを考えてみたいと思います。

例として取り上げるのは、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)の「むじな」(”Mujina”)です。ハーンは日本に帰化して小泉八雲と名乗り、作家として活躍しました。「むじな」は「のっぺらぼう」が登場する作品で、「耳なし芳一」と並んで日本人にはよく知られた話ではないでしょうか。それだけではなく、ローカライズ/翻訳を考える上でとても興味深いテキストと思われるため、こちらを例に考えていきます。なお、原文はこちらで読むことができます。

訳例①: 平井呈一訳(ラフカディオ・ハーン『怪談』岩波文庫より)

東京の赤坂に紀の国坂という坂がある。紀の国坂とは、紀伊の国の坂という意味である。なぜこの坂が、紀伊の国の坂といわれるのか、わたくしはその故を知らない。この紀の国坂の片側には、古くから大きな深い濠があって、濠の上には青草のはえた高い土手がそそり立っており、その土手の上は、なんとかという公園になっている。坂の一方は、御所の、長い、見上げるような高い土塀がずっとつづいている。まだ街灯や人力車なんぞのなかった時代には、このへんは夜になると、人っ子ひとり通らない、ごく寂しいところでもあった。日の暮れ過ぎ、遅くなってひとりで通る通行人は、この紀の国坂は通らずに、何町もまわり道をしたものであった。

訳者の平井呈一(1902-1976)は海外怪奇小説の紹介・翻訳を精力的に行った翻訳家で、小泉八雲作品の全訳者でもあります。歴史的名訳とでもいうべき、大変読みやすく流麗な翻訳です。翻訳だと言われなければ初めから日本語で書かれたものと思ってしまうほどです。

訳例②: 円城塔訳(東雅夫編『文豪妖怪名作選』創元推理文庫より)

トーキョーのアカサカ街には、キイ地方の坂という意味で、キイ・ノ・クニ・ザカと呼ばれる坂がある。キイ地方の坂と呼ばれる理由をわたしは知らない。坂の一方には、深く広い古びた堀があり、なんとかという庭園に繋がる緑の土手が立ち上がっており――もう一方には、皇宮の塀が長く高々と続いている。街灯とジンリキシャが現れる以前、このあたりは日暮れとなると寂しい限りで、帰りの遅くなった住人たちは、日没後に一人でキイ・ノ・クニ・ザカを越えるくらいなら、何マイルか無駄をしても遠回りをすることを選ぶのだった。

 訳者の円城塔(1972-)はSF作家としてデビューしましたが、芥川賞を受賞するなど、ジャンルを横断して活躍する現代日本を代表する作家です。地名がカタカナ表記であったり、マイルという単位がそのまま使われていたり、一見すると作品の舞台が日本とは思えない訳文です。「ジンリキシャ」という表記も目を引きます。原文では”Jinrikishas”となっていますが、上記の平井訳のように「人力車」とはせずカタカナ表記にしています。直訳調で違和感をおぼえるという方もいらっしゃるかもしれません。

 円城訳が直訳調である(ように見える)理由

円城氏はこの作品をある方針に基づいて訳しています。こちらのインタビューで、円城氏は「英米の人が受け取ったような感覚を再現」すべくこのように訳したと話しています。英語圏の多くの読者はこの作品を異国の物語として読みます。しかし、日本の読者が平井訳で読んだ場合、時代は違うものの自分の住む国の話として受容します。そのため、原文か翻訳かの違いはありますが、同じ作品を読んでいるにもかかわらず、受け取った感覚には差異が生じるのです。

円城訳の方針はその差異を少しでも埋めようとするものだと言えます。つまり、日本語訳を読んだ日本の読者が受ける印象を、原文を読んだ英語圏の読者が受ける印象に近づける、そのような方針の翻訳と呼べるでしょう。

多くの場合、原文の書き手が日本語で書いたとしたらこのように書いた、と思えるように訳すことが求められ(参考)、これが翻訳の方針となります。上記の平井訳はまさにこの方針で訳され、その観点からすると要求に応じた翻訳になっています。しかし、「英米の人が受け取ったような感覚を再現」するという方針で訳すことが求められていると仮定したら、円城訳はその要求を満たした翻訳といえます。つまり、両者の翻訳はまったく雰囲気が異なるものの、それぞれに求められた要件を満たした翻訳といえます。

翻訳品種の把握は品質向上に不可欠

この記事では文芸作品を例として挙げましたが、当社が取り扱う分野の翻訳でも同様です。どのような方針で訳すかによって、訳調や読み手が受ける印象は変わります。その方針を決めるためには、文書の用途や対象読者、お客様の好みといった品種の把握が欠かせません。その際、お客様からご提供いただける情報が翻訳品質の向上に大変役立ちます

このように、お客様からいただいた情報やフィードバックをもとに品種を把握した上で翻訳の方針を決めることが、お客様にご満足いただける翻訳サービスを提供するためにはとても重要となっているのです。


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